A House of Eight Rooms
NOR
蓼科高原・八室の宿
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On the Way道中
私はいま、蓼科高原の宿に向かっている。
茅野の駅で電車を降りたのは午後三時を少し過ぎたころで、空はよく晴れていた。改札を出ると、待合室の窓ガラスに自分の姿がぼんやりと映った。鞄ひとつ。コートのボタンをひとつ余分に留めて、まるでこれから誰かに会いに行く人のような顔をしている。
迎えの車は約束より十分早く来ていた。私が名乗ると、運転手は黙ってドアを開けた。
市街地を抜けると、両側に枯草色の高原が広がった。緩やかに弧を描く道が、青空の下を先へ伸びていく。遠くで雲がひとつだけ動いていた。
道は、まだ少しだけ続いていた。
Eight Names八つの名
玄関の先は明るい広間で、天井まで届く窓の向こうに針葉樹の緑が広がっていた。女性が一人、奥から出てきて、まるで久しぶりに会う友人を迎えるように、ゆっくりと頭を下げた。
部屋はすべて、自然のものから名前を取ったのだと、彼女は言った。松、苔、石、沢、空、燼、羽、そして霧。朝の光が最初に入る角部屋、苔むした小径に面する部屋、大きな石を据えた二人のための部屋、沢の音がよく届くいちばん北の部屋、屋根裏の星のための部屋、薪ストーブのある居間、いちばん奥のいちばん静かな部屋。
私は霧を選んだ。朝霧が谷から立ち上るのを、窓越しに見てみたかった。
「いい選択ですね」と、彼女は言った。
At the Window窓辺
部屋には、低いベッドと小さな机、そして大きな窓があるだけだった。
窓は谷の方を向いている。今はまだ、何も立ち上っていない。針葉樹の濃い緑が、ゆっくりと暮れていくのが見える。
鞄を椅子の上に置き、コートを脱いだ。木の床は素足にひんやりとして、けれど嫌な冷たさではなかった。
茶を淹れる道具が机の隅に置かれていた。湯を沸かしている間、私はただ窓の前に立っていた。明日の朝、ここから何が見えるのか、うまく想像できなかった。
夕食は六時、と聞いていた。
A Quiet Table静かな食卓
食堂には、長い木のテーブルがひとつだけ置かれていた。私のほかに、年配の夫婦が一組。何度か来ているらしく、宿の主と低い声で話していた。
最初の一皿は、深い緑の長皿に、二つだけ置かれていた。薄く切った鮭が揚げたものを抱くように巻かれていて、脇に小さなほおずきがひとつ。冷たさと温かさと、ほんのりとした酸味が、ひと口のなかで出会った。
合わせて出された白ワインは、淡い金色をしていた。料理の酸味とちょうど合っていて、誰かが時間をかけて選んだ一本なのが、わかった。
部屋に戻る廊下は冷えていた。夜の山は思っていたよりずっと静かで、遠くで沢の音がしているのが、廊下の窓を閉めると消えた。
部屋の灯りを落として、しばらく窓の外を見ていた。月はなく、ただ暗かった。
布団に入って、本を少しだけ読んで、眠った。
Of the Mist霧の朝
朝、目を覚ましたとき、外はまだ薄暗かった。
窓に近づくと、谷の底から白いものが、ゆっくりと、本当にゆっくりと、立ち上ってきていた。霧だった。
それは煙のように上に消えていくのではなく、谷全体を満たすように、横へ横へと広がっていく。一本の白樺が霧の中に呑まれ、また現れ、また消えた。
どのくらいそうしていたか、わからない。気がつくと、針葉樹のいちばん上の枝にだけ、朝の光が当たっていた。
Before Leaving別れぎわ
朝食のあと、案内人と一緒に、林床の小径を歩いた。霧はまだ低い場所に残っていて、彼の声がそこに吸い込まれていく。教えてくれた草の名前は、二つだけ覚えた。
戻ってきてから、茶室や薪のサウナがあると聞いた。次に来るときの楽しみに、何かを残しておくのも悪くない。
鞄をまとめると、来たときと同じ車が、玄関に着いていた。
「また、霧の季節にいらしてください」と、女性は言った。
私は頷いた。次にどこへ行くかは、まだ決めていなかった。
次の夜、あなたの座る場所を、
いまから残しておきます。